ナッスリーさんって

【タイの国から日本に来て最後の住み家山添村で残したものは】

バンコク出身の女性が1992年34歳の時 二人の子供を故郷に残して日本に来た。

茨木県や三重県の工場で働き毎月故郷に仕送りをする毎日でした。

1999年山添村に移住して三重県で働いた。

3年後友人の紹介で知り合った山添村吉田の吉住武也さんと出会い結婚する。

夫には前妻の男児が一人いたが可愛らしくて愛情をたっぷり注ぎ立派に育てあげた。

当時は三重県の菓子工場で働いていて ふと故郷の揚げ菓子の事を思い出した。

タイの国でお母さんが揚げては水上マーケットで販売していたというお菓子。

「これはまだ日本には無い よし!日本で作って日本人に食べて貰おう!」

このお菓子とはカノムドークジョークといってタイの田舎で作っていた物。 

ある日町で売ったら爆発的にヒットして有名になったという揚げ菓子である。

現在は殆ど作られていないらしい。 

理由は 技術がいる 手間がかかる 壊れやすい 儲からないとかで、、、

次第にすたれて行き作る人は次第にいなくなったらしい。

急遽 休暇届を出して故郷に帰る。

母親は既に亡くなった後で 金型を家中探し回りなんとか見つけ出した。

しかし作り方がわからないし知識のある人も身近にいない。

お菓子を販売してるお店を探しまわる。

何とか苦労してお菓子と金型と材料を手に入れた。

希望もカバンに詰め込んで日本行きの飛行機に乗った。 

日本の空港に着いてお菓子を確認すると無残にも全て壊れていた。 

作り方をこの日本でお教えてもらう人は中々見つからなかった。

しかし 同郷人を訪ねたり、思考錯語しながら作れるようになった

勤務先の三重県の会社で社長に教えて商品化に成功した。

可愛らしい数々の色の商品も開発した。

しかし そう上手くはいかなかった。

事情があって直ぐに会社を辞めることになる。 

外国人であることに失望し会社に限界を感じたのである。

そして地元の会社に再就職するも その会社が火事になり 一念発起するのである。 

「このお菓子を自宅で作ろう」 夫に相談する。

工房を作ってもらい「タイおかし工房」と名付ける。 

何度も材料の量を変えたり工夫しながら完成したお菓子は「あじさいかりんとう」と名付けた。 

地元の産直センター花香房に持ち込んだ「コレ売ってもらえませんか?」

初めの内は売れなかったが、TV 新聞に取り上げられるとまたたく間にヒットした。

早朝から作ったり 徹夜した日もあり一日500個作る事もあった。

ある日お腹の痛い日が続き「憩の家病院」に行くと 子宮ガンだと告げられた。 

目の前が真っ黒になるも手術を受ける。 退院後もお菓子は作った。

商品は順調に販売できた。 針町の「はやおきどり」でも販売した。 

【平成18年3月「はやおきどり」で人生最後の運命の人に出会う】

はやおきどりの生産者でもあった私と出会うのである。

ナスリーさんの旦那は私の同級生だった。 

以前から井岡GSの社長に 武ちゃんが外国の良く働く嫁さんと再婚して

幸せに暮らしていると言っていたのを気にしていた。 

その外国人がナッスリーさんだったのである。

その年の春にナッスリーと夫と二人で私の家に遊びに来た。 

山添村の吉田は不便な所であり 工房も狭い お菓子の大量生産も出来ない、

話題はお菓子のアイデアで盛り上がる。

現在 僕の旧家が空いている。 

目の前には道の駅針テラスがあるし交通の利便も良い。 

ここでお菓子を作ったらどうですか?  と提案する。 

ナッスリーさんはその気になりヤル気満々になる。

タイで暮らしている子供を呼めば大量に作れると夢に酔う。 

タイ料理も作りたい 夢と希望に満ち溢れていた。

しきりに「私の心は真っ白でキレイです」とアピールしてくる。

私は奈良交通を定年退職して嘱託社員だった。 

早速自分で台所をリフォームして保健所の許可を受けたのが平成28年8月。 

しかしこの時ナッスリーさんの身体はすでに蝕んでいた。 

会うたびに痛いとか苦しそうな姿を見せていた。

半年前から身体の不調を訴えて病院に通院していたのも知っていたが。。。

ガンが再発していたのである。 

痛みを抑えて保健所の検査に立ち会い 開店の時期を伺っていた頃。 

憩の家病院の看護士長(私の妹)から電話が入る。 

ナッスリーさんが 婦人科病棟が一杯なので妹の病棟に入院しているという。

症状は末期状態であり母国に帰る事も出来ないという。

又 看病する人は旦那以外に誰もいないという。

私の妻は毎日献身的に病院で世話をした。 

次第に痛みを訴える日も多くなりモルヒネ治療に入る。 

通訳できる人を探しタイの子供に日本に来るよう電話をする。

待ちきれない中 数日が経ち、

関西空港に到着した時間に惜しくもナッスリーさんはあの世に旅立った。

入院中旦那のお母さんと日本で育てた子供は2回見舞いにきた。 

その子供は学校を卒業する後も家でブラブラしていた。 

それが就職先が決まりナッスリーさんは喜んでいた。

しかし 奇しくも葬式の翌日が初出勤日になっていた。 

ナッスリーさんとの出会い多数の偶然の数々は不思議の連続だった。

誰も想像できなかった事ばかりでした。

病室で子供に「頑張れよ!」と言った後 小さな声で「お母さん」と

返事した姿が今も忘れられない。

育ててくれた義理のお母さん,

「ありがとう」と大声で言ってハグしたかったんだろうけど

親子の関係は修復されたのであろうか。

側で見ていて 深いわだかまりの印象を受ける時間でもあった。

当時子供の頃からお母さんが外国人なんてみっともない 山添村では珍しい。

しかも吉住家はお茶の老舗、商人で栄えていた古い立派な家柄でもあった。 

その嫁が外国人なんて 中々認めてもらえなかったらしい。 

他人には想像出来ない苦労が家族皆で共有していたのだろうと思った。

葬儀も終わり 完成した工房を見て無駄になったと思った。

もうカリントウを作る人はこの世にいないんだ。 

ふと思い出した。病室でナッスリーさんは夢を見ていたのだろうか、 

何度も「お菓子を作りたい」と呟いていた事。 

僕の手を握り「ありがとうありがとう」と言って泣き続けていた事。 

僕は涙で濡れた手を見て このお菓子を残してあげたいと思っていた事。 

今ではナッスリーさんは僕にあじさいかりんとうを託したのだろうと思っている。

ナッスリーさんの夢を叶えるために旦那に一緒にお菓子を作らないか?

と聞いたが あっけなく作らないと返された。 しかし

もし作ってくれるんだったら全面的に協力すると言ってくれた。

しかしレシピを見てもタイ語でしか書いていない。 

SNSで製造方法や情報を探し ナッスリーの友人や タイ人を探し、

実際に家に来てもらい製造方法を見せてもらったりもした。 

商品化して販売にこぎつけるまで半年かかった。

その頃は奈良交通の嘱託社員だったので「大宇陀の道の駅」に持ち込んだ。 

駅長は「ずっとこのお菓子を探していた」と言った。 

昔お土産に貰っ時は初めての形に驚いた事、とても美味しかった事。

それが こんなに近くにあったなんて! とビックリされた。

「個人の生産者は宇陀市の人しか受け入れないけど特別に売ってあげるから持ってこい」

と言って下さった。

その後は H.P F.B 口コミ SNS リピーター 懐かしいという人達も次々現れ今日に至っております。

お菓子作りの原点は ナッスリーさんが日本で20年間暮らした証しを残してあげたい!

そう思いながら一人でコツコツと作っています。そして、 

毎年命日の供養日にはナッスリーさんが眠る高野山にお参りして報告しています。

「やっとタイの国に帰れたね。お疲れ様、ゆっくりと休んで下さい」 と。